2016年4月12日火曜日

ルーズベルト

宮崎正弘さんのブログです



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引用

世論を操作し、シナ大陸の権益を狙った狂気の大統領FDRを産んだのはアメリカ人ではないか。
 
 こうした「狂気」が循環的に米国の政治を席巻することがある。
 卑近な例がFDR(フランクリン・ルーズベルト)である。ルーズベルトはいったい何のために日本に戦争を仕掛けたのか?

 当時、FDRの最大の政治ライバルだったハミルトンが怒りを込めて告発した本は日本でも翻訳がでている。それはハミルトン・フィッシュ、渡邊惣樹訳『ルーズベルトの開戦責任』(草思社)で、戦後、GHQが押しつけた『太平洋戦争』史観を転覆させるに十分な決定版とも言える書籍だ。真珠湾攻撃がルーズベルトのしかけた陰謀による行為だったことは、いまや歴史学界における常識となりつつある。
 
ところが米国ではまだそうした真実を述べると「修正主義者」のレッテル貼りが行われる。日本の卑怯な奇襲という位置づけ、直前の「ハルノート」をFDRは巧妙に隠したが、事実上の対日最後通牒だった史実は徹底的に無視され、米国史学界ではまだルーズベルト陰謀論は主流にはなっていない。

 以下は前にも書いたことがあるが、反復すると、ルーズベルト大統領の最大のライバルで、「大統領が最も恐れた」議会共和党の有力者ハミルトン・フィッシュはオランダ系移民の名家、FDRの住居のあるNYが、彼の選挙地盤でもあり、実はふたりはそれまでの二十年間、仲が良かった。

 共和党の重鎮でもあったハミルトンがFDRと袂を分かったのは、移民によって建国された米国は不干渉主義の国であり、しかも欧州で展開されていた、あの血なまぐさい宗教戦争に嫌気がさして新天地をもとめてきたピューリタンの末裔が建国した国であり、その理想からFDRの開戦準備はおおきくはずれているとして、正面から反対したのだ。

 しかし、本当のことを知るのはFDRの死後である。ハミルトン・フィッシュは、この『ルーズベルトの開戦責任』をFDRならびに関係者の死後まで辛抱強くまち、さらに祖国の若者がまだ戦っているベトナム戦争の終結まで待って、ようやく1976年に刊行したのだ。そして日本語訳はさらに原著刊行から38年、じつにFDRの死から70年後、第一次世界大戦から百年後になってようやく日の目を見たのだった。

 ルーズベルト大統領が議会を欺き、真珠湾奇襲の翌日に開戦を議会に求めて、これには当時の共和党指導者としてのハミルトンも賛成演説をせざるを得なかった経緯が詳述されている。米国の不干渉主義は一夜で覆った。



 第二次世界大戦まで米国の政治を覆っていたのは孤立主義、他の国々で何が起ころうともアメリカ人は国際政治に関心を持とうとはしなかった。
 日本の真珠湾攻撃が米国の孤立主義を転覆させた。
 今日の歴史学では常識となりつつあるが、当時の大統領ルーズベルトは日本の真珠湾攻撃を事前に知っていながら故意に放置し日本軍の奇襲を待っていた。

奇襲の衝撃はアメリカ人の怒りを組織化出来る。
国論を右から左へ一夜にして転換出来る。こうした劇的なことでもない限りアメリカでは国内に閉じ籠もろうという孤立主義が国際主義へと転換することはあり得ない。その意味では9・11テロ事件に酷似するのである。


引用以上


   ルーズベルト大統領が日本に対して最後通帳とも言えるハルノートを突きつけ、真珠湾攻撃を促がし、それを卑怯な奇襲として米国世論を開戦に導いたのです。


暗殺教室♯19を見ながら

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